酒井隆司 生活の道具

良質の労働が良質の社会を形成する。信州松本で家具と生活用具を作っています。

文章を写す。/ 調律師の恋

調律師の恋という本は数年前に何気なく目に留まり図書館で借りて読んだ本です。
とても面白かったので今は古本ですが持っています。
先日もう一度読み返しました。


さて文章を写すというとその字から写経という言葉が連想されます。突然ですが。
写経は未知の世界ですが意外な世界がそこにあるかもしれません。
それはともかく書き写す、真似をする、コピーするというのはあるゆる行動の基本といえるかもしれません。
赤ん坊が大人の真似をする、曲をコピーする、絵画を、家具を・・・


そういえば小説家を目指す人は本を丸々一冊、書き写すなんてことをするんでしょうか?
今回は何を思ったのか、ちょっとだけそんな試みをしようかと。
別に小説家になりたいわけではありません。


時は1886年。ロンドンの調律師エドガーに陸軍から奇妙な依頼が届く。
ビルマの奥地に行ってエラールの調律をしてほしい』
エラール。それは音楽を愛する者にとって憧れともいえる伝説のピアノ。
遥か遠い戦禍のビルマになぜ。・・・


この小説は歴史物であり戦記物がそうであるように恋やロマンを織り交ぜていく、
そういったスケールの大きさが背景にあります。
ただそうはならずというのか一調律師から見た前半から中盤は旅行記のようになっています。
ただもちろん傍観者にはとどまれず結局は戦禍の渦に飲み込まれていきます。


まず書き写すパートは主人公エドガーが船上で出会う不思議な老人の話です。
これは直接は本筋とは繋がっていません。
長くなるので適当に何回かに分けて書きます。




調律師の恋 the Piano Tuner/Daniel Mason




エドガーはじっと男を見た。
『たしかアレキサンドリアを出てから、ずっとああしているようですが』
『ええ、あの人こそが一番の変わり者かもしれません。一つの話の男、といってます。
もう、長らくご常連になってまして、いつの頃からでしょうなぁ、毎回一人で乗ってこられますよ。
誰が船賃を払っているのか、どんなご商売なのか、よくわかりません。だいぶ下の船室ですけれどね。・・・
『一つの話とはどういう意味です?』
船長はふふっと笑った。『いやぁ、昔からの呼び名です。普段は黙っていて、たまに口を開きたくなったときは、
たった一つだけの話を語ります。私も聞いたことがありますが、一度聞いたら忘れませんよ。
ひとと話すというのではない。勝手にしゃべるだけです。
始まったら最後まで止まらない。いわば蓄音機のようで、へんなものですよ。
いつもは黙りこくっていますが、いざ話をされてしまうと・・・もう聞かなかったことにはできません。』・・・


次の朝・・・
もう男のそばに立っていた。『おはようございます』と言ってみる。
老人はうなずいて見せた。色黒の顔だ。ひげの色は衣服と同じ。エドガーは言葉が続かなくなった。
だがとにかく踏ん張って、手すりの前でならんだ。相手は何とも言わない。舳先を洗う波音も、エンジンの唸りに消されている。
『紅海は初めてかな』と老人が言った。めずらしい訛りのついた深い声だ。
『ええイギリスを出たのも初めてで・・・』
これを老人はさえぎって、『唇を見せてくださらんか。耳が聞こえないので』
エドガーは顔を向けた。『これはどうも、知らぬこととはいえ・・・』
『お名前は?』と老人は言った。
『ドレークです・・・これを』と、ポケットをさぐり、旅支度に作っておいた名刺を取り出す。


エドガー・ドレーク
調律師 エラール専門
フランクリン・ミューズ14番地
ロンドン


くねくねした字体をのせた小さなカードが老人の皺だらけの手にあるのを見ると、急にまずかった
ような気がした。だが老人は名刺の文字をどうにか判読したようだ。『イギリスの調律師か。音を
知る人というわけだ。では話を聞いてくださらんか、エドガー・ドレークさん。音を聞けない老人
の話を、』


・・・